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日中友好40周年。その礎となった岡崎嘉平太と周恩来。(中国へのODA)〜日本人の美徳〜 [日中友好40周年 岡崎嘉平太]

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日中友好40周年。その礎となった岡崎嘉平太と周恩来。(中国へのODA)〜日本人の美徳〜

ODA=政府開発援助(Wikipediaより一部抜粋)
国際貢献のために先進工業国の政府及び政府機関が
発展途上国に対して行う援助や出資で、大別して、
援助相手国に返済の義務が無い「無償資金協力」と
低い金利で、融資期間の長い「有償資金協力(円借款とも言われる)」がある。

援助対象となる方法は、二国間援助と
多国援助(国際機関に資金を拠出して、多国間援助を行うもの)がある。

日本の中国に対する2国間援助の累積総額は、
世界各国の中で最高額であり、約3兆3165億円。(2007年現在)
うち無償資金協力は、約1510億円、技術協力は、約1638億円である。

多国間援助と合わると2007年までに、世界に約6兆円のODAを行っている。
すでに2011年、GDP(国内総生産)で中国が世界第2位となったことと相まって、
日本政府は対中ODAのうち有償資金協力(円借款)に限り
2008年の北京五輪を境に打ち切った。

初期の日本のODAは戦後賠償(*1)としての意味合いが強かった。


(*1)戦後賠償〜ドイツと日本の比較〜

国際的に、日本とドイツの戦後賠償額(と方法)について
よく取り沙汰される。
一般的(表層的)に、ドイツの額に比べて日本の額が低すぎるとされているが
ODAを絡めて実態を深く見てみたい。

ドイツは旧西ドイツ時代以来、
ユダヤ人虐殺などへの個人補償だけでも、
円換算で総額約6兆円を支払ってきているとされる。

それに比べ日本がアジア諸国に払った賠償・準賠償は約6千億円と
ドイツに比べ約1/10である。

しかし、前述しているように日本がODAとして世界各国(アジアだけではないが)に
供出した額はドイツとほぼ同額の約6兆円である。

では何故、戦後補償(謝罪の仕方も含め)としての評価が
日本の場合、著しく低いのか。

筆者は思うが、美しい言い方をあえて言わせてもらえば
それは「日本人の美徳」に関係すると感じる。

現代日本人の実態とは違い、根底に流れる日本の美徳感では、
『やってあげた。いくらいくら補償しました』といった
作法を好まない。

日中友好40周年。その礎となった岡崎嘉平太と周恩来。(その一)〜岡崎嘉平太という男〜

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日中友好40周年。その礎となった岡崎嘉平太と周恩来。(その一)〜岡崎嘉平太という男〜

日本の尖閣諸島国有化を期に(2012年9月11日)、
中国各地、最大100を越える都市でデモが頻発し、
いくつかの都市では一部のデモ参加者が暴徒化し、
日系企業の工場やショッピングモールが焼き討ちや破壊、略奪等過激化した。
戦後、いや日中友好条約(*1)以来、最悪の事態といえる。

これからの日中関係を憂慮し、来年、再来年には
いや、もっと早く日中の人々同士が、
笑顔で握手する日を夢見て、岡崎嘉平太の功績を振り返る。

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(*1)日中友好条約[Wikipediaより一部参照]
1978年8月12日、
北京で日本国と中華人民共和国との間で締結された条約。
一般に「日中平和友好条約」とも言われている。
日中互いの首相間で調印された。

それに先駆けて、日本と中国が国交を回復するために
1972年9月29日、北京で調印された「日中共同声明」があり、
この年から数えて日中友好40周年と呼ばれている。(2012年現在)

いずれの調印も締結も
日本側は、内閣総理大臣:田中角栄(外務大臣:大平正芳)、
中華人民共和国側は、国務院総理:周恩来(外交部長:姫鵬飛)によって
取り交わされた。

「日中平和友好条約」の主な内容として、
主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉がある。
中国側は賠償金請求を放棄する代わりに、
日本側からODA(政府開発援助*2)等の巨額な経済援助を引き出した。

(*2)日本のODA=政府開発援助については、こちら>>
>>日中友好40周年。その礎となった岡崎嘉平太と周恩来。(ODA〜政府開発援助)
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〜日中友好の礎となった岡崎嘉平太〜

日中友好の礎について一般的に日本国内での認識は、
1972年、1978年とも、
田中角栄と周恩来によって取り交わされたことから
日本人の立役者として田中角栄の功績と見られがちだ。

しかし、それに逆上る4年前の1968年から地道に活動し、
時の中国の首相であった周恩来との関係を深く築いた
岡崎嘉平太(おかざき かへいた)の功績であることがわかっている。

okazaki_1.jpg

岡崎嘉平太は、第二次世界大戦へと戦火を広げる起点ともなる
日中戦争によって、中国人に対して与えてしまった多大な損害を悔恨し、
戦後20年以上に渡る隣国中国との国交断絶状態を憂い、
日中を友好的関係へ導くため「貿易という場」を利用した交流を発案した。

そして最終的に国交樹立へとつなげた“陰の立役者”であり、
世界に誇れる民間人である。

日中友好のために岡崎嘉平太は、
かつてから構想していた戦後の日中間を良好に築きあげていくために、
手間がかかり、常に流動的で不安定な政治の手段ではなく
まずは「官 - 民」間による交流を「貿易という場」を構築することが、
日中友好の礎になると確信し、日本の外務省、を動かし
LT貿易(通称:LT協定*3)の基盤を利用しながら
周恩来との関係を構築していった。

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(*3)LT貿易
1962年、日本と中国との間で交わされた
「日中長期総合貿易に関する覚書」
正式な国交はなくとも、互いの連絡事務所を設置し、
政府保証の融資を利用して行われた半官半民的な貿易形態。
1968年から名称を「日中覚書貿易」と変更。
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岡崎嘉平太は1968年以降、
「日中覚書貿易」事務所代表として訪中を重ね、
政界の古井喜実、田川誠一らとともに「日中の冬の時代」を乗り切り、
日中国交正常化に尽力し、周恩来首相から最も信頼された日本人である。

岡崎嘉平太という男は「日中共同声明」に至る
極めて大切な役割を担っていたということだ。

日中友好40周年。その礎となった岡崎嘉平太と周恩来。(その二)〜周恩来との出会い〜へ続く>>>




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